ロバート・エガース監督による映画『ウィッチ』は、いわゆるジャンプスケアや派手な演出で観客を驚かせるタイプのホラーではありませんでした。魔女狩りの裁判記録や当時の民話、宗教的文書を丹念に読み込み、それをほぼ忠実に映像化したかのような、極めて静的で、思索を強く促す作品です。
観ている最中、「楽しい」「怖い」と単純に感情が動くというよりも、「これは何を描いているのか」「なぜこの出来事が起きたと信じられていたのか」を考え続けることになりました。エンタメというより、体験型の思想映画に近いです。
本記事では、物語の整理だけでなく、宗教・心理・象徴表現の観点から、『ウィッチ』が何を描こうとした作品なのかを丁寧に読み解いていきます。
物語のあらすじ|「信仰ゆえの追放」から始まる孤立
舞台は17世紀のニューイングランド。敬虔なキリスト教徒である一家は、信仰の解釈をめぐって共同体と対立し、村から追放されます。彼らは文明や社会から切り離された森のはずれで、家族だけの生活を始めることになりました。
この時点で、すでに大きな前提が示されていました。それは、「社会的な支えを失った信仰共同体は、どこへ向かうのか」という問いです。
森の中での生活は過酷で、農作物は育たず、食料は不足します。貧困と栄養失調は、家族の身体だけでなく精神も蝕んでいきました。そんな中、末子サムが突然姿を消すという事件が起こります。この出来事をきっかけに、家族の均衡は一気に崩れ始めます。

「説明できない不幸」は、なぜ“魔女”のせいになるのか
サムの失踪以降、家族には次々と不幸が降りかかります。作物は育たず、家畜は死に、長男ケイレブは森で不可解な体調不良に陥ります。現代の視点で見れば、飢餓、感染症、環境要因など、合理的な説明はいくつも考えられますが、彼らにとってはそれらを「自然現象」や「偶然」として処理する枠組みはなかったようです。代わりに用意されていたのが、「魔女」という概念です。
当時の人々にとって、魔女は単なる空想の存在ではありません。理解不能な不幸、説明のつかない出来事、そして自分たちの信仰が正しいにもかかわらず報われない理由を、すべて引き受けてくれる存在でした。つまり魔女とは、「不安の受け皿」だったのだと思います。
祈りが通じないとき、不安は攻撃へ変わる
この一家は、何度も祈ります。神に許しを乞い、救いを求めました。しかし、祈っても状況は改善しません。ここで重要なのは、「祈りが無力だった」という点ではなく、「祈りが無力だと感じさせる状況が続いた」ということです。信仰は本来、不安を和らげ、意味を与える装置として機能するものです。しかし、極限状態ではその信仰すら疑われ始めます。
・自分たちの信仰が間違っているのではないか
・誰かが罪を犯しているから神の怒りを買っているのではないか
こうして視線は、外ではなく内へ向かいます。その結果始まるのが、「魔女探し」です。
魔女探し=責任転嫁のプロセス
一家の中では、次第に互いを疑う空気が強まっていきます。特に疑いの目を向けられるのが、思春期の少女トマシンでした。
母親は、サムの失踪をトマシンの不注意のせいだと責めます。双子は、トマシンが魔女だとふざけ半分に口にします。父親は家族を統率できない自分の無力さを直視できず、より強固な信仰と規律で抑え込もうとします。ここで起きているのは、「罪の所在」を誰かに押しつける行為です。
自分たちが選んだ道――村を出たこと、森で暮らすこと、家族だけで完結しようとしたこと――
それらの選択が間違っていたかもしれない、という可能性を直視するのはあまりにも苦しいです。だからこそ、「魔女」という外部の悪が必要になります。
説明のつかない描写は、何を意味しているのか
『ウィッチ』には、明確な説明が与えられない場面が多いです。
・サムが一瞬で消える
・ケイレブがリンゴを吐き出す
・森の中の老婆や黒山羊ブラック・フィリップ
これらは、本当に超自然的な存在だったのか、それとも当時の人々の解釈をそのまま映像化したものなのでしょうか。個人的には、「どちらとも取れるように作られている」こと自体が、この作品の核心だと思います。
ケイレブの症状は、現代医学的に見れば破傷風や感染症を想起させます。リンゴを吐き出す描写は、アダムとイヴの原罪神話になぞらえ、「罪を吐露する」「罪に蝕まれた身体」を象徴しているとも読めます。事実か幻想かよりも、「彼らはそう信じた」という点が重要なのです。

七つの大罪として読む『ウィッチ』
この物語を、キリスト教的な「七つの大罪」の寓話として読むと、非常に整理がしやすくなります。
・父:傲慢
神の意志を自分が最も正しく理解しているという思い込み。共同体を離れる決断も、その傲慢さの延長にある。
・母:嫉妬
娘の若さ、可能性、そして「選ばれているかもしれない」という無意識の恐れ。
・ケイレブ:色欲
信仰と欲望の間で揺れる思春期の少年。
・双子:憤怒と怠慢
不安からくる攻撃性と、責任を負わない態度。
・サム:暴食
文字通りの象徴としての存在。
そして最後に、トマシンが悪魔と契約する場面で、「強欲」が完成します。ここで重要なのは、トマシンが特別に「悪」だったわけではないということです。彼女は、家族の罪と不安をすべて背負わされ、行き場を失った結果として、その選択をします。
トマシンの選択は「堕落」か「解放」か
ラストシーンで、トマシンは悪魔と契約し、魔女の集団に加わりました。この場面を、単純に「堕落」や「敗北」と捉えるのは簡単です。しかし別の見方もできます。
彼女は、
・常に疑われ
・抑圧され
・罪を背負わされ
続けてきました。
社会も家族も失った彼女にとって「悪魔との契約」は唯一の選択肢だったとも言えます。それは、信仰からの解放であり、同時に「役割を押しつけられる人生」からの離脱でもあります。だからこのラストは、恐ろしくもあり、どこか解放的でもあります。
この映画が突きつける問い
『ウィッチ』が描いているのは、魔女そのものではないのです。描かれているのは、「不安をどう処理するか」という人間の普遍的な問題です。
・不安を内省に向けるのか
・外部の敵を作るのか
その選択を誤ったとき、集団はどこまで残酷になれるのでしょうか。
現代に生きる私たちも、決して無縁ではありません。SNS、スキャンダル、陰謀論、魔女狩り的な炎上。構造は驚くほど似ています。
おわりに|静かに心を蝕むホラー
『ウィッチ』は、観終わった後にスッキリする映画ではありません。むしろ、じわじわと違和感と問いが残り続けます。恐怖とは、叫び声や血ではなく「人はどこまで思い込みに支配されるのか」という事実なのかもしれません。だからこそ、この作品は、静かで、重く、そして忘れがたいものになっています。



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