基本情報
映画『RUN』は2020年公開のアメリカのサスペンススリラー作品です。監督は『search/サーチ』を手がけたアニーシュ・チャガンティ監督です。
本作は一見すると、いわゆる「毒親スリラー」に分類される作品です。しかし実際に観終わった印象としては、単なるショッキングなサスペンスではなく、「保護」と「支配」の境界線をかなり丁寧に描いた心理ドラマ寄りの作品だと感じました。
一般的なスリラーは、「犯人の正体」「衝撃の真実」「どんでん返し」に重きを置くことが多いですが、本作は少し違います。
この映画の怖さは、
・閉鎖された環境から逃げられないこと
・自分の体が自分のものではないかもしれない恐怖
・信じていた人間を疑わなければいけない苦しさ
こういった、「状況そのものの怖さ」にあります。
特に印象的だったのは、「一瞬の驚き」ではなく「じわじわ侵食してくる恐怖」です。観終わった直後より、時間が経ってからの方が怖さを感じるタイプの作品だと思いました。
あらすじ(ネタバレなし)
生まれつき複数の持病を抱え、車椅子生活を送る少女クロエ。
彼女は母ダイアンと二人きりで、人里離れた家に暮らしています。
クロエは学校に通わず、通信教育を受けながら生活しています。
外出、服薬、食事、インターネット使用――生活のほぼすべてが母の管理下にあります。
ここだけを見ると、決して異常とは言い切れません。
むしろ「献身的な母」とも取れる設定です。
しかしある日、クロエは小さな違和感に気づきます。
その違和感は、最初は説明できないほど些細なものです。
ですが、その違和感をきっかけに、クロエは「自分の人生そのものがコントロールされている可能性」に近づいていきます。
序盤のワクワク感と、「サーチ」との共通構造
序盤で『サーチ』に登場したフリー素材が出てきた瞬間、個人的にはかなりワクワクしました。
同じ監督作品というだけでなく、「親子」「管理」「情報制限」というテーマが重なっているからです。
ただし、本作はサーチほど伏線回収型の衝撃作品ではありません。むしろ本作の怖さは、逃げる・疑う・気づくという「過程」にあります。つまり「真相」よりも、「真相に近づいてしまう過程」が怖い映画です。敵から逃げるために必死に考えるクロエ。閉じ込められた環境からどう脱出するかという構造は、観ている側の身体にも緊張感を与えます。
クロエの脱出劇 ― ホームアローン的サバイバル
クロエが自分の持てる力を最大限に使い、閉じ込められた家から脱出するシーンは、この映画の大きな見どころの一つです。
このシーンには、どこか『ホーム・アローン』のような構造があります。
・限られた空間
・限られた道具
・限られた身体能力
・限られた時間
その中で、知恵だけを使って状況を切り開いていく。
クロエの場合はさらに、「体が思うように動かない」という制約があります。そのため、一つひとつの行動に命の重みがあります。この脱出は、「誰かに助けられた成功」ではありません。「自分の判断で選び取った成功」です。
だからこそ、クロエが外に出られた瞬間、観ている側にも強い達成感が生まれます。
「薬の副作用で妄想」―信じてしまいそうになるリアリティ
この映画で特に印象的だったのが、「薬の副作用で妄想の症状が出る」という説明です。
これが非常に巧妙です。完全に嘘ではない設定なので、「母は本当に守ろうとしている可能性」を最後まで残します。
例えば、
・ネット使用制限 → 病状を守るため
・人里離れた環境 → 喘息対策
・服薬管理 → 命を守るため
これらはすべて、「良い母」の行動として成立してしまいます。

最初の違和感はホームビデオ
昔のホームビデオを見ながら、急に真顔になる母。ここで最初の違和感を感じました。ただしこの違和感も、悲しみ・喪失・後悔のどれにも見えてしまいます。ここが本当に怖いポイントです。「異常」ではなく「悲しい人」に見えてしまう。
自助グループのシーンが持つ二重構造
自助グループで母が語る言葉も印象的でした。最初は、「子どもの介護に疲れて、早く家を出てほしい」と感じました。同時に、「子どもが自立できるくらい健康になることを望んでいる母」にも見えます。
クロエが、母は他の母親を羨ましく思っていると感じるのも自然でした。しかしラストまで観ると、この言葉は全く別の意味を持ちます。
母はクロエを自立させるつもりがなかった。だからこそ「自立」という言葉を使っていた可能性があります。

母の本質 ― 代理ミュンヒハウゼン症候群という「役割依存」
物語を通して見えてくるのは、母が代理ミュンヒハウゼン症候群の特徴を強く持っているという点です。
代理ミュンヒハウゼン症候群とは、簡単に言うと、「他者を病気にすることで、自分が世話をする役割を維持する」状態です。
重要なのは、「相手を苦しめたい」のではないという点です。むしろ本人は、「自分は世話をしている」「守っている」と本気で思っているケースが多いです。
作中の母の行動は、まさにこの構造を示しています。
・脚のトレーニングを一生懸命行う
・同時に筋肉弛緩薬を飲ませる
・「あなたを殺すなんて」と否定する
ここで見えるのは、「命を奪う意思」はないことです。しかし同時に、「自由を奪い続ける意思」はあります。これは非常に現実的で、そして怖いポイントです。
「良い母」であり続けるために、子どもを弱らせる構造
母はクロエを傷つけたいわけではありません。むしろ「良い母」であり続けたいのだと思います。しかしその「良い母」という役割を維持するためには、
・世話が必要な子ども
・守らなければいけない子ども
・依存してくる子ども
が必要になります。
つまり、子どもが健康になること=自分の役割が失われることになってしまうのです。この構造は、現実のケースでも存在します。だからこそ、この映画の怖さはフィクションにとどまりません。
父の不在が示す「孤立した世界」
なぜ父がいないのか。作中では明確に説明されません。しかし、クロエが高校生になるまでこの生活が成立していたという事実は重要です。
つまり、親族・友人・第三者がほぼ存在しない環境だった可能性があります。
母の背中の傷跡も象徴的でした。詳細は語られませんが、虐待・DV・家庭崩壊などを想像させます。もし母が過去に「誰にも守られなかった」経験をしていたとしたら、「守る側」に執着する心理は理解できます。
ただし、それは同時に、「守られる側の人生を奪う危険性」も持ちます。
母にとっての「子ども」は誰だったのか
ここが個人的に最も重かったポイントです。母にとって本当に大切だったのは、クロエ本人ではなく、「様々な病気を持って生まれ、すぐに亡くなった赤ちゃん」だった可能性があります。
その赤ちゃんは数時間で亡くなった。
その現実を受け入れられなかった。
だから、クロエを「代替」として生きさせた。
もしそうだとすると、母の行動は一貫します。母はクロエを「愛していた」のではなく、「失った赤ちゃんを愛し続けていた」のかもしれません。

クロエが自由を勝ち取った瞬間
薬を数日飲まなかったことで、脚が少し動き始める。この小さな変化が、クロエの人生を変えます。ここには象徴性があります。
自由は、大きな革命ではなく、小さな違和感から始まる。クロエは、「もしかして」「何かおかしい」という感覚を信じました。それが、人生を変える選択につながります。
ラストシーン ― 復讐と赦しのあいだ
数年後、収監された母に面会に来たクロエ。母が怯えた表情をしている理由、それはクロエにじわじわと復讐されているからだと感じました。
ただし、この復讐は単純ではありません。クロエは母を殺していない。母を見捨ててもいない。しかし、母を「許してもいない」。
この中間地点が、非常にリアルでした。
観る側に残る感情の矛盾
このラストで残る感情はとても複雑です。
・復讐してほしくない
・でも、クロエの人生は奪われた
・母は病気だった
・でも、被害は現実
この矛盾が、後味の悪さとして残ります。しかし、この割り切れなさこそが、この映画の誠実さだと思いました。
リアリティ面の違和感
一方で、気になる部分もありました。動物を飼っていないのに動物病院の薬があったり、主治医が長年気づかなかったり、証拠を残していることなどには違和感を感じました。
映画的都合ではありますが、もう少しリアルでもよかったかもしれません。
この映画が突きつける倫理的問い
この映画は、明確な答えを提示しません。代わりに、問いを残します。
・守るとは何か
・支配とは何か
・愛とは何か
・自立とは何か
そして一番重い問いは、「愛しているなら、何をしても許されるのか」です。
まとめ
クロエの自由は、完全ではないかもしれません。奪われた時間は戻りません。それでも、クロエは自分で未来を選びました。
後味は良くありません。しかし、その不快さこそ、この映画の誠実さだと思いました。



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