『羊たちの沈黙』は猟奇殺人映画ではない——レクター博士が行っていた“治療”の物語

映画感想

――精神分析映画として読み解く、静かで残酷な「治療」の物語

『羊たちの沈黙』というタイトルが、あまりにも美しいこの作品。この映画を初めて観たときから、私はずっと「これは猟奇殺人映画ではなく、ひとつの治療過程を描いた物語なのではないか」と感じてきました。

表向きは連続殺人事件を追うサスペンス。けれど、その奥には、トラウマ・投影・治癒・共感・支配といった、心理臨床の要素が幾重にも折り重なっています。とくに、ハンニバル・レクター博士とクラリス・スターリングの関係性は、危険でありながら、あまりにも洗練された「治療者―クライエント関係」として描かれています。

映画『羊たちの沈黙』を 心理学・精神分析の視点から、じっくりと読み解いていきます。

ハンニバル・レクター博士は「精神科医」としてクラリスを診ていた

レクター博士は、殺人鬼でありながら、同時に極めて優秀な精神科医として描かれています。彼は一貫して、クラリスを「女性」「FBI訓練生」「若造」として扱わない。ただの“人間”として見る。ここが重要です。

クラリスが事件にのめり込む理由を、彼は早々に見抜いています。それは正義感や使命感ではなく、過去のトラウマの再演であること。彼女が語る、里親の家から逃げ出した夜の記憶。屠殺される子羊たち、助けられなかった命、今も耳から離れない悲鳴。この告白は、精神療法における「核心的外傷体験の想起」に他なりません。

レクター博士は、ここで安易な共感や慰めを与えない。
代わりに、こう示唆します。

  • 今回の事件の被害者
  • 捕らえられ、逃げられず、殺されていく女性たち
  • そして、あの夜の子羊たち

これらはすべて、クラリスの中で重なっているのだ、と。被害者を救い出せば、犯人を止めることができれば、子羊たちの悲鳴は、ようやく止むかもしれない。

これは、「過去のトラウマを現在に投影し、象徴的に解決することで治癒を促す」という、極めて精神分析的な介入です。レクター博士は、間違いなくクラリスを“治療している”。ただし、彼なりの、彼にしかできない方法で、です。

クラリスは「救済される側」ではなく「主体」である

この映画が特別なのは、クラリスが「守られるヒロイン」ではない点です。彼女は常に、不快な視線を浴び、性的な目で見られ、女性であることを理由に軽視されます。警察官、同僚、上司、ときには、善意の顔をした人間でさえも。その扱いに、観ているこちらも強い嫌悪感と怒りを覚えます。

それに対して、レクター博士だけは違う。彼はクラリスを利用する、操る。けれど同時に、彼女の知性と感情を真正面から評価している。だからこそ、クラリスは惹きつけられる。それは恋愛感情ではなく、「初めて人として対等に扱われた」という体験への傾倒です。

そして、ここが非常に重要ですが、クラリスは決してレクター博士に依存しきらない。彼の助言を受け取りながらも、最後に現場へ踏み込むのは、銃を構えるのは、暗闇の中で恐怖と向き合うのは、常にクラリス自身です。

治療は受けている、けれど、治る主体は彼女自身。この構造が、この映画を「女性の成長物語」としても成立させています。

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バッファロー・ビルもまた「トラウマの被害者」

連続殺人鬼であるバッファロー・ビルもまた、単なる怪物としては描かれていません。彼は強烈な自己否定と、歪んだ変身願望を抱えた人物です。「自分を別の存在に変えたい」「今の自分では生きられない」この感覚自体は、決して珍しいものではありません。ただし、彼はそれを他者を犠牲にする形でしか実現できなかった。だからこそ、彼は「許されない」のです。しかし同時に、哀れで、救われなかった存在として描かれています。

レクター博士とバッファロー・ビルは対照的です。
同じく異常性を持ちながら、

  • レクター博士は知性と自制を持ち
  • バッファロー・ビルは衝動と混乱に支配される

その差が、運命を分けたようにも見えます。

脱獄シーンは「知性による支配」の極致

レクター博士の脱獄シーンは、もはや映画史に残る名場面でしょう。冷静に考えれば、違和感は最初から散りばめられています。

  • 「お前の同僚だぞ」という上司のセリフ
  • 天井から滴る血(そんなミスを彼がするはずがない)
  • 檻の中では知的で静かなのに、外に出た瞬間の大胆さ

すべてが、「もう起きている」ことを示している。そして、チルトンのペン。サインを求められ、「あれ、ないな?」と思わせておいて、最後に完璧なキーとして回収される。この伏線の貼り方が、本当に美しい。

レクター博士は力で脱獄しない。暴力だけでもない。相手の心理を読み、利用し、支配する。それは彼が一貫して使ってきた、精神科医としての技法でもあります。

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チルトンの末路と、歪んだカタルシス

精神病院長のフレデリック・チルトンは、終始、観ていて苛立つ存在です。功名心、手柄の横取り、浅はかな自己顕示。結果として、彼はレクター博士を脱獄させ、南米へと飛ばされ、最後は「夜ごはん」になる。倫理的に言えば、決して笑える話ではありません。けれど観客としては、どこかスカッとする。それは、知性なき権力が、知性によって食い尽くされるという構図が、あまりにも鮮やかだからかもしれません。

『羊たちの沈黙』とは、何が沈黙した物語なのか

最後に、このタイトルについて。

沈黙するのは、殺人ではない。恐怖でもない。沈黙するのは、クラリスの中で鳴り続けていた、子羊たちの悲鳴。過去を語り、意味づけし、現在の行動として引き受け、象徴的に解決する。それによって、ようやく訪れる静けさ。

『羊たちの沈黙』は、血と恐怖の映画であると同時に、ひとりの女性がトラウマと向き合い、主体として立ち上がる物語です。そしてその治療者が、最も危険で、最も知的な男だったという皮肉。だからこそ、この映画は、何度観ても、何度でも考えさせられる。静かで、残酷で、それでも、どこか救いのある物語なのです。

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