作品データ
- 邦題:CUBE 一度入ったら、最後
- 公開:2021年10月22日
- 上映時間:108分
- 監督:清水康彦
- 配給:松竹
- 主演:菅田将暉、杏、岡田将生、斎藤工、吉田鋼太郎ほか
- 原作(オリジナル):Cube(カナダ、90分)
- オリジナル監督:ヴィンチェンゾ・ナタリ(日本版は“公認リメイク”としてクリエイティブ協力の名も)
- 主題歌:星野源「Cube」
CUBEとは?
元祖は1997年公開の低予算密室スリラーで、立方体の部屋が無数に連結した迷宮に、見知らぬ複数人が突然放り込まれるところから始まります。面白いのは、「怪物」や「超常現象」ではなく、構造とルール(=システム)そのものが恐怖になっている点です。そして原作が尖っているのは、説明を極力しないところ。「誰が作った?何のため?」を、観客が勝手に想像して勝手に震える、あの“余白”が最大の魅力でした。
『CUBE』という作品の恐怖は、単なるトラップやスプラッター表現にあるわけではありません。むしろ恐ろしいのは、「意味のなさ」です。なぜ閉じ込められたのか。誰が作ったのか。外に出られたとして、そこは本当に“安全”なのか。オリジナル版が突きつけてくるのは、理由のわからないシステムに放り込まれた人間の無力さでした。そこには善悪も、救済も、明確な黒幕すら存在しません。
人はただ、数字を読み、罠を避け、人と衝突し、死んでいく。その冷酷さが、『CUBE』を単なる密室スリラーではなく、構造そのものが恐怖の装置になった作品へと押し上げていました。
日本リメイク版が選んだ方向性
日本版は、その世界的ヒット作を、豪華キャストで再構成したリメイクです。公開前から「オリジナルに忠実」と言われていたので、原作ファンとしては期待値が上がりに上がった状態で劇場に向かうわけです。
日本リメイク版『CUBE』は、この「意味のなさ」をそのまま再現する道を選びませんでした。
代わりに置かれたのは、
・明確な人物背景
・社会的立場の違い
・世代間の分断
・努力する者/しない者という価値観の対立
つまり、日本版『CUBE』は、システムの恐怖ではなく、社会の中で生きる人間の息苦しさを描こうとした作品だと言えます。これは決して間違った方向性ではありません。ただし、その選択によって、作品の質感は大きく変わりました。
あらすじ
目を覚ますと、見知らぬ立方体の部屋。壁にはハッチがあり、隣の部屋へ移動できる構造になっています。部屋ごとに刻まれた三桁の数字。その数字には意味があり、誤った部屋に進めば、即死級のトラップが作動します。
閉じ込められたのは、年齢も職業も価値観も異なる6人。彼らに共通しているのは、ここに来た理由が誰にも分からないという一点のみです。
脱出するには進むしかありません。進むには、数字の法則を読み解き、危険な部屋を回避しなければならない。しかし極限状態では、理性よりも感情が先に立ちます。恐怖、焦燥、怒り、不信感。それらが少しずつ人間関係を蝕み、やがて協力関係は崩れていきます。
この物語は、「トラップをどう回避するか」ではなく、「人間が集団で極限に置かれたとき、何が壊れていくのか」を描いています。
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キャスト・キャラクター
この作品はキャスティングがとにかく強いです。原作の“記号的な人物”よりも、日本版は最初から「この人はこういう社会的立場」「こういう傷」を背負っている、と輪郭が太い。その結果、良くも悪くも、CUBEは「謎の施設」だけでなく、日本社会の縮図として読める作りになりました。
そして公式サイトでSNS設定を用意していたマーケの力技、たしかに“邦画の頑張り方”で面白いところです。 おそらく撮影が始まったあたりから、ちゃんと更新がされています。
後藤裕一(菅田将暉)29歳

東京都出身。職業はエンジニア。家族構成は父親と弟の博人。頭脳明晰で、謎の部屋に閉じ込められたことを冷静に受け入れ、脱出の糸口を探る。5人に平等に接するが、中学生の千陽には特別な感情を抱くも本人は気づいていない。時間が経つにつれ、過去のトラウマと向きあうこととなる。ごとう(@3641_y)
甲斐麻子(杏)37才

出身地不明。職業は団体職員。家族構成は不明。非常に冷静沈着な性格で、自分のことはほとんど語らないので、一見何を考えているかよくわからない。冷たく見えがちだが、5人を見守ってる様子も垣間見える。asako kai(@asa5ika)
越智真司(岡田将生)31才

千葉県出身。職業はフリーターでコンビニ勤務。家族構成は両親と妹。人見知りせず、人懐っこい性格ではあるが、パニックになりやすく変化に弱い。 閉じ込められたことをなかなか受け入れられず、またそれを隠すこともできないので騒ぎ立てる。自分が世間から虐げられているという意識が強いので、権力者や年上が嫌い。おっち(@0tchin1989)
宇野千陽(田代輝)13才

神奈川県出身。職業は中学生。家族構成は両親と弟。元々は明るい性格だったが、中学校で壮絶ないじめに遭い心を閉ざす。 誰のことも信用せず、特に助けてくれない大人に強い嫌悪感を示す。後藤のことも最初は拒否していたが、少しずつ変化が起こっていく。ウノチハル@本垢(@chiharuuno0)
井手寛(斎藤工)41才

福岡県出身。職業は整備士。家族構成は妻。責任感が強く、リーダーシップを取っていくタイプだが、時々暴走しがちで短絡的。6人の中で唯一部屋に閉じ込められる前の記憶があり、瀕死の妻のために出口を探すが、時間がなく非常に焦っている。井手寛(@ide_hiro4)
安東和正(吉田鋼太郎)62才

愛知県出身。職業は広告代理店役員。家族構成は妻と娘。業界を渡り歩いてきたやり手のサラリーマンだが、出世するためには手段を選ばないため、敵も多い。心の奥底には罪の意識を抱えている。 がむしゃらに働いてきたので、やる気のない若者や子供が嫌いKazumasa Ando(@and0it_kazumasa)
日本版CUBEが描く「社会の縮図」
日本リメイク版の最大の特徴は、登場人物たちが非常に“社会的”である点です。エンジニア・団体職員・フリーター・中学生・整備士・大企業役員という、彼らは無作為に集められたように見えて、実は日本社会に存在する立場や分断を象徴する配置になっています。
年齢差・職業による格差・成功者と非正規労働者・大人と子ども。密室の中で起こる衝突は、そのまま現実社会で繰り返されている対立構造の縮図です。
オリジナル版では、人物は比較的記号的でした。だからこそ、誰が死んでも「システムの冷酷さ」が前に出ています。
一方、日本版では、「この人はこういう人生を生きてきた」「この人はこういう苦しさを抱えている」
という情報が早い段階で提示されます。それにより、観客は登場人物を“理解できてしまう”。ここが、日本版CUBEの大きな転換点です。

選ばれた6人は「役割」を背負わされていた
日本リメイク版『CUBE』に登場する6人は、偶然集められた被害者ではありません。
彼らはそれぞれ、明確な役割と社会的属性を背負わされています。
この点が、オリジナル版との決定的な違いです。オリジナル版では、「なぜこの人たちなのか?」という問いに明確な答えは用意されていませんでした。しかし日本版では、「この立場の人間なら、こう振る舞うだろう」という前提が、かなり強く設定されています。
エンジニア・後藤裕一という“善意の象徴”
後藤は、冷静で理知的、かつ他者に手を差し伸べようとする人物として描かれます。数学的な思考力を持ち、CUBEの構造を理解できる立場にありながら、彼は常に「人」を見ています。しかしその善意は、過去のトラウマによって歪められています。弟を救えなかった後悔。「頑張れ」と言った自分の言葉が、結果的に弟を追い詰めたという罪悪感。
後藤は、正しさと優しさの間で立ち尽くしている人物です。だからこそ彼は、千陽を前にすると判断を誤ります。理屈では助けるべきだと分かっている。けれど、また同じ過ちを繰り返すのではないかという恐怖が、身体を止めてしまう。彼は“正しい大人”であろうとするがゆえに、動けなくなる存在なのです。
中学生・千陽が背負わされた残酷な役割
千陽は、明らかにこの集団の中で異質な存在です。年齢、体格、立場、すべてにおいて弱者。しかし、日本版『CUBE』は彼を単なる被害者としては描きません。千陽は、数字の規則性に最初に気づき、理論上は脱出の鍵を握る存在として配置されています。
ここで作品が突きつけてくるのは、非常に残酷な構図です。本来守られるべき存在が、最も冷静で、最も役に立つ存在として消費される。
大人たちは彼を守ろうとする一方で、彼の知性に頼り、彼の判断に未来を委ねてしまう。これは、日本社会における「若者に期待するが、責任は取らない」という構造を、そのまま写し取ったようにも見えます。
フリーター・越智が体現する“歪んだ被害意識”
越智は、作中で最も感情的で、最も不安定な人物です。彼は常に被害者意識を抱えています。上司に見下され、社会に評価されず、努力しても報われない。その怒りは理解できる一方で、彼はその怒りを「他人にぶつける」ことでしか処理できません。
CUBEという極限状況は、彼の中にある劣等感と猜疑心を、むき出しにします。やがて彼は、「自分だけが損をしている」「この中で一番不幸なのは自分だ」という思考に支配されていきます。
越智は、社会に居場所を見つけられなかった人間が、集団に入ったときに起こす破壊衝動を象徴しています。
役員・安東が象徴する「成功者の孤立」
安東は、経済的にも社会的にも成功した人物です。しかし彼は、その成功の過程で多くのものを切り捨ててきたことを自覚しています。
だからこそ彼は、努力しない若者や不満ばかりを口にする人間を強く嫌悪します。それは、自分がやってきたことを否定される恐怖の裏返しです。安東は、CUBEの中でも「正しさ」を語ります。努力した者が報われるべきだ、と。
しかしCUBEというシステムは、努力と結果がまったく結びつかない場所です。その矛盾に直面したとき、彼の価値観は一気に崩れ始めます。
整備士・井手という“動く人間”
井手は、理論よりも行動を優先する人物です。考える前に動き、指示を出し、場をまとめる。一見すると短絡的ですが、CUBEの序盤において、彼の存在は集団の精神的支柱でした。井手がいる間、彼らは「考えすぎずに前に進む」ことができていた。しかし彼が最初の犠牲者になることで、集団は一気に思考過多へと傾いていきます。これは、行動する人間が失われたとき、集団は疑心暗鬼に陥るという、非常に現実的な描写です。
甲斐麻子という“観察者”
甲斐麻子は、終始感情を表に出しません。議論にも深入りせず、対立にも加わらない。この距離感は、物語後半で明確な意味を持つことになります。
彼女は、最初からゲームの外側にいる視点を持っていた存在でした。彼女だけが、争わない・急がない・感情に流されない。CUBEのルールに、最も適応していた人物なのです。
「誰かが犠牲になる構造」の意味
日本版『CUBE』では、犠牲が偶然ではなく、段階的に“選ばれている”ように見えます。それは、焦る者・怒る者・他人を蹴落とそうとする者から順に排除されていく構造です。しかし最後に生き残るのは、最も優れていた者ではありません。最も「感情を揺らさなかった者」です。ここで描かれるのは、感情を持つ人間ほど、システムに殺される世界です。
トラップが「感情」に反応する世界の正体
日本リメイク版『CUBE』で特徴的なのは、トラップの発動が理屈だけで完結していない点です。オリジナル版では、数学・論理・偶然が支配する世界でした。しかし日本版では、そこに人間の感情が強く絡みます。部屋の色が変わる演出は、その象徴です。
青い部屋は、比較的冷静な状態を表しています。怒りや恐怖、不信が高まると、部屋は赤へと変化していきます。これは単なる視覚効果ではありません。CUBEという空間そのものが、人間の精神状態を観測しているという示唆です。つまり、日本版CUBEは「物理的な迷宮」であると同時に、心理的な選別装置なのです。
トラップが止まる瞬間の意味
作中で何度か、「本来なら死んでいたはずなのに、トラップが止まる」という瞬間があります。
これは偶然ではありません。
トラップが止まるのは、
・まだ役割を終えていない人物
・観察対象として価値が残っている人物
つまり、選別が完了していない人物です。この時点で、CUBEはランダムな殺戮装置ではなく、意図を持ったシステムであることが明確になります。
「努力」が報われない構造
日本版『CUBE』が描く世界では、努力・能力・善意は、生存条件になりません。後藤は賢く、優しく、協調的でした。井手は行動力があり、仲間思いでした。それでも彼らは死にます。
生き残る条件は、感情を抑えられる・期待しない・希望を持ちすぎない、ということ。これは、極めて現代的なメッセージでした。
なぜ千陽だけが生き残ったのか
千陽は、確かに優秀でした。しかしそれ以上に重要なのは、彼が「まだ社会に絶望しきっていなかった」ことです。彼は傷ついていますが、世界そのものを否定してはいません。
CUBEは、「まだ戻る場所がある人間」を外へ出します。それ以外は、中で“更新”されるのです。
後藤が「CONTINUED」だった意味
後藤のステータスが「CONTINUED」と表示されるのは、彼がまだ“修正可能な存在”だからです。彼は善意を持ちながら、過去に縛られ、選択を誤った。CUBEは、彼を殺すのではなく、再び試すことを選んだ。これは、「この社会は、人を簡単には解放しない」という、非常に冷酷な示唆でもあります。
黒幕が象徴するもの
日本版『CUBE』は、人間の感情を観測し、選別し、再配置する装置として描かれています。怖さの正体は、「死」ではなく「評価されること」。そして評価基準は、正しさでも善意でもなく、感情をどれだけ殺せるかです。
日本版『CUBE』における最大の変更点は、黒幕が明確に「人格」を持つ存在として描かれていることです。それが、甲斐麻子(杏)というキャラクターでした。彼女は終始感情をほとんど見せず、会話も必要最低限、共感も拒絶も表に出さない。その違和感は、「冷静な女性」ではなく、最初から人間ではない視点を持つ存在だったと考えると腑に落ちます。
なぜ黒幕はアンドロイドだったのか
オリジナル版『CUBE』では、黒幕は最後まで曖昧なままでした。「国家なのか」「官僚機構なのか」「誰も責任を取らない巨大システムなのか」、なにもわからない恐怖が続くイメージです。
それを、日本版は一体の存在に集約します。
アンドロイド=甲斐麻子。
これはつまり、「感情を排した合理的判断を行う存在」を象徴しています。彼女は善悪で判断しません。可哀想かどうかも関係ありません。ただ、データ、反応、結果だけを見ています。
甲斐麻子が一切語らなかった理由
甲斐麻子は、自分の過去も、思想も、価値観も語りません。
これは脚本の都合ではなく、語る必要がない存在だからです。人間は、「自分を理解してほしい」「正当化したい」「意味づけしたい」だから語ります。しかし彼女は違う。甲斐麻子は、説明責任を持たない権力そのものなのです。
日本版CUBEが描いた「管理社会」
この作品のCUBEは、罰を与える装置ではありません。救済を与える装置でもありません。それは、人を分類し、振り分け、更新するシステムです。使えるか・壊れているか・修正可能か・廃棄対象か、その判断が、淡々と感情なく下されます。甲斐麻子は、その判断を実行するインターフェースに過ぎません。
なぜ「社会的弱者」が多く集められたのか
日本版で集められたのは、いずれも社会の中で、居場所を失い、評価されず、怒りや絶望を溜め込んだ人間たちです。彼らは「問題を起こす可能性のある存在」として見なされています。CUBEは、そうした人間を“隔離”する装置にも見えます。ここで描かれているのは、ディストピア的未来ではなく、今この社会の延長線です。
CUBEに隠された数字と構造の法則
素数が示すもの ― 希望という名の呪い
作品内で重要な役割を果たす「素数」。素数とは、1と自分自身でしか割り切れない数です。この設定は単なるギミックではありません。素数は、CUBEという混沌とした世界に、秩序が存在する可能性を示します。
人間は、完全な無秩序には耐えられません。どんなに理不尽でも、「ルールがある」と分かった瞬間、人はそこに希望を見出します。
しかしその希望は、同時に呪いでもあります。なぜなら、「正しく計算すれば助かる」「間違えたのは自分のせい」という思考が生まれてしまうからです。
本来、閉じ込められた理由は誰にも分からない。それなのに、ルールが見えることで、自己責任の構造が立ち上がってしまう。これは、現実社会にもよく似ています。
デカルト座標が与えたものと奪ったもの
やがて、数字が単なる暗号ではなく、三次元の座標を示している可能性が浮かび上がります。ここでCUBEは、「運に左右される迷宮」から、把握可能な構造物へと姿を変えます。地図が描ける、端が存在する、出口が理論上は存在する。一見すると、希望しかない発見です。
しかし同時に、もう一つの残酷な事実が示されます。部屋は動いているという可能性です。どれだけ正確な地図を描いても、その前提が崩れれば意味がない。
努力も、知識も、理論も、システム側の一方的な仕様変更で無力化される。ここで描かれるのは、「正しく生きれば報われる」という幻想が壊れる瞬間です。
フラクタル構造が暗示する閉塞感
CUBEの壁面に見られる、同じ形の繰り返し。これはフラクタル構造、すなわち自己相似図形を思わせます。どの部屋に行っても似たような景色。違うのは、待ち構えているトラップの種類だけ。これは単なるデザインではありません。逃げても逃げても同じ場所に戻される感覚を視覚的に強調しています。
職場を変えても、結局同じ理不尽。人間関係を変えても、似たような衝突。環境を変えても、構造は変わらない。
CUBEは迷宮でありながら、抜け出せない社会構造そのものを象徴しているのです。
なぜ「残念なリメイク」と感じてしまうのか
それは、日本版がつまらないからではありません。むしろテーマは現代的ですし、俳優陣の演技は安定しています。問題提起も明確です。
それでも違和感が残るのは、CUBEという器と、日本的な物語構造が噛み合っていないからです。CUBEは本来、意味を拒絶する作品でした。日本版は、意味を与えすぎてしまった。
オリジナル版『CUBE』は、「意味のない世界」を描いていました。理不尽で、説明がなく、誰も救われない。日本版は違います。日本版『CUBE』は、意味がありすぎる世界を描いています。なぜ殺されるのか・なぜ選ばれるのか・なぜ残されるのか、すべてに理由がある。だからこそ、怖さの質が変わってしまった。
この作品が描いているのは、「生き残るための能力」ではありません。描かれているのは、評価され続ける社会で、どこまで自分を保てるか。怒ったら不利。期待しても不利。信じすぎても不利。感情を殺し、空気を読み、波風を立てない者だけが生き残る。それは、あまりにも現実的な地獄です。
なぜ会話が長くなると緊張感が消えるのか
日本版『CUBE』が「緊張感に欠ける」と感じられる理由は、会話が長く、説明が多いことにあります。しかしこれは、単なる演出の失敗とは言い切れません。
会話が増えるほど、過去が語られ、感情が言語化され、人物像が固定されます。つまり、登場人物が“理解される存在”になっていくのです。CUBEという装置は、理解され、共感され、説明される人間を容赦なく排除します。
これは、非常に皮肉な構造です。
なぜ日本版は「怖くなく」なったのか
オリジナル版『CUBE』が怖かった理由は、「理由がわからないまま殺される」ことでした。
日本版は、その逆をやっています。なぜ怒っているのか、なぜ焦っているのか、なぜ裏切ったのか、すべてが説明されます。その結果、恐怖は「理解」に変わり、サスペンスは「ドラマ」に置き換えられます。つまり日本版『CUBE』は、スリラーではなく社会劇なのです
日本版『CUBE』は何を失い、何を得たのか
日本版『CUBE』が原作と比べて失ったものは、理不尽さ、不条理な恐怖、説明されない余白です。逆に得たものは、社会批評性、感情の可視化、現代日本への皮肉だと思います。
結論、日本版『CUBE』は、名作の再現ではなく、別の作品として観るべき映画です。
密室スリラーではなく、管理社会に生きる私たちへの寓話。そう考えると、このリメイクは「失敗」ではなく、違う地獄を描いた作品だったのかもしれません。



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