人はどこまで生き直していいのか─映画『ある男』考察

映画感想

映画 ある男 を観終えたあと、すぐに言葉にできる感想は案外少ないかもしれません。
派手な展開があるわけでも、感情を大きく揺さぶるクライマックスがあるわけでもない。それなのに、時間が経つほどに、じわじわと心の奥に沈殿していく違和感が残ります。

それはおそらく、この映画が「答え」を提示しないからです。
代わりに投げかけてくるのは、

  • 自分とは何者なのか
  • 人はどこまで生き直していいのか
  • 嘘と選択の境界線はどこにあるのか

といった、簡単に結論を出せない問いばかりです。

本作は、観客に寄り添う顔をしながら、最終的には突き放します。
だからこそ、観終えた後に「これはどういう話だったのか」を、自分自身の言葉で整理せずにはいられなくなるのです。

日本アカデミー賞8冠が示すもの|評価されたのは完成度だけではない

『ある男』は第46回日本アカデミー賞において、作品賞を含む8部門で最優秀賞を獲得しました。
数字だけ見れば「出来の良い映画が評価された」という話に思えますが、この結果はもう少し踏み込んで見る必要があります。

この作品が高く評価された理由は、
今の日本社会が抱えている歪みを、非常に静かな語り口で可視化した点にあると感じます。

差別、出自、戸籍、血縁、名前。
どれも声高に語れば角が立ち、扱いを誤れば誰かを傷つけてしまうテーマです。
それらを真正面から叫ぶのではなく、「一人の男の人生」というミクロな視点に落とし込んだことが、この映画の強さでした。

原作・平野啓一郎の思想的背景|「分人主義」と『ある男』

原作小説を書いた平野啓一郎は、一貫して「人は一つの人格ではない」という思想を描いてきました。
彼が提唱する「分人主義」とは、人は関係性ごとに異なる顔を持ち、そのどれもが本物であるという考え方です。

『ある男』において、この思想は非常に重要です。
なぜならこの物語は、「本当の自分はどれか」を探す話ではなく、
どの自分を生きることを選ぶのかという話だからです。

名前や戸籍は、人を一つの存在として固定します。
しかし現実の人間は、そんなに単純なものではありません。

石川慶監督の演出|なぜこの映画は感情を煽らないのか

石川慶監督の特徴は、感情のピークを意図的に作らないことです。
悲しい場面でも音楽は控えめで、説明的なセリフもほとんどありません。

これは観客にとって、ある意味で不親切です。
「ここで泣いていい」「ここで怒っていい」という合図がないからです。

しかしその不親切さこそが、本作に独特のリアリティを与えています。
現実の人生もまた、感情の山場にBGMは流れません。
説明もつかないまま、出来事だけが積み重なっていく。

あらすじ再考|これは“なりすまし”の物語ではない

物語の表面だけをなぞれば、「亡くなった夫が別人だった」という衝撃的な設定が目を引きます。
しかし『ある男』は、その謎を解くこと自体を目的にしていません。

むしろこの設定は、
人はどこまで他人を理解していたと思い込めるのか
という問いを浮かび上がらせるための装置です。

里枝は夫を愛していました。
一緒に生活し、子どもを育て、日常を共有していた。
それでもなお、夫の「本名」も「過去」も知らなかった。

では、彼女が愛していたのは誰だったのでしょうか。

“ある男”はなぜ他人の人生を生きたのか

大祐が他人の名前を名乗り、過去を捨てた理由は、単純な逃避ではありません。
彼は「何かから逃げた」というよりも、**「生きられる場所を探した」**ように見えます。

犯罪者の息子であるという事実は、彼の人生に常につきまとっていました。
自分が何をしても、どれだけ誠実に生きても、
「その家の人間」というラベルが先に立つ世界。

名前を変えることは、過去を消す魔法ではありません。
それでも彼は、その選択をしなければならなかった。

大祐という人物の不確かさ|なぜ彼は掴みどころがないのか

窪田正孝が演じる大祐は、終始どこか輪郭が曖昧です。
感情を露わにすることは少なく、何を考えているのか分かりにくい。

しかしそれは演技の不足ではなく、
「自分を定義できない人間」の在り方そのものだと感じます。

彼は、自分が何者であるかを問われ続け、答えを持てなかった。
だからこそ、誰かになることでしか、生きる場所を確保できなかったのです。

城戸という語り手の役割|彼はなぜこの物語を追うのか

城戸は弁護士です。
本来であれば、事実を明らかにし、法的に整理する立場の人間です。

しかし彼は次第に、
「真実を暴くことが正しいのか」
という疑問に絡め取られていきます。

城戸自身もまた、在日韓国人という出自を抱えています。
彼は「社会的に適応している側」に見えますが、その内側には、
名前や国籍によって規定されてきた人生があります。

在日という属性|選べないラベルと共に生きること

城戸の苦悩は、露骨な差別として描かれることはありません。
それでも、彼が自分の出自をどこかで意識し続けていることは、行動の端々から伝わってきます。

差別は、常に明確な形で現れるわけではありません。
「特別扱いされないこと」
「問題にされないこと」
それ自体が、見えない圧力になることもあります。

犯罪者の息子という原罪|大祐が背負わされたもの

大祐が背負っていたのは、自分が犯した罪ではありません。
それでも彼は、社会から「加害者側」として扱われ続けてきました。

罪は誰のものなのか。
どこまでが本人の責任で、どこからが周囲の想像なのか。

この問いは、映画の中だけで完結するものではありません。

絵画モチーフの再読|「なりすまし」の象徴から「人間存在」へ

前編でも触れたように、本作における絵画は非常に重要な役割を果たしています。
冒頭で登場したとき、観客の多くはこう感じたはずです。

「これは“誰かになりすましている男”の暗示なのだろう」

しかし、物語の終盤で再び絵画が映し出された瞬間、その解釈は大きく揺さぶられます。
妻夫木聡演じる城戸の後ろ姿と重なることで、絵画はもはや大祐一人の象徴ではなくなります。

ここで浮かび上がるのは、
「なりすましていない人間など、本当に存在するのか?」
という問いです。

私たちは日常の中で、

  • 社会人としての顔
  • 親としての顔
  • 子どもとしての顔
  • 友人としての顔

を無意識に切り替えています。
それらはすべて演技でしょうか。それともすべてが本当でしょうか。

『ある男』は、「偽りの人生」と「本物の人生」という二項対立を拒否します。
大祐の生き方は極端だったかもしれませんが、
その根本にある構造は、私たちの日常と地続きなのです。

里枝という存在|この物語の倫理的重心

里枝は、物語上もっとも難しい立場に置かれた人物です。
彼女は確実に「騙された側」であり、被害者です。
それにもかかわらず、彼女は怒りや断罪の感情を前面に出しません。

これは決して「心が広いから」ではありません。
むしろ彼女は、自分が何を失い、何を得ていたのかを、非常に冷静に見つめています。

  • 自分が愛していた時間
  • 子どもたちが受け取っていた関係性
  • 夫が家族として果たしていた役割

それらは、名前や過去が偽りだったからといって、
一瞬で消えてしまうものではありません。

里枝は、「知らなかった」という事実を否定せず、
同時に「それでも存在していたもの」を切り捨てないという、
非常に困難な選択をしています。

「被害者であること」と「理解すること」は両立できるのか

多くの物語では、被害者は怒る権利を持ちます。
それは当然のことですし、否定されるべきではありません。

しかし『ある男』は、
怒らない被害者
裁かない被害者
を描きます。

それは美談ではありません。
むしろ観る側に不安を与えます。

「それでいいのか?」
「許してしまっていいのか?」

この居心地の悪さこそが、本作の狙いです。
簡単に「許す/許さない」の結論を出せない現実を、
そのまま観客に引き渡してくるのです。

理想の母親像を再考する|感情を“言葉にしていい”環境

前編でも触れた長男の存在は、後編においてさらに重要性を増します。
彼は、作中で最も成熟した視点を持つ人物かもしれません。

長男は、自分の感情を母親に伝えます。
寂しい、悲しい、混乱している。
そして、それを否定されずに受け止められてきました。

これは当たり前のようでいて、実はとても難しいことです。
多くの家庭では、

  • 親の余裕のなさ
  • 子どもに負わせたくないという思い
  • 感情を処理するスキルの不足

によって、子どもの感情は抑圧されがちです。

里枝は、完璧な母親ではありません。
それでも彼女は、「感情を語っていい空間」を壊さなかった。
その積み重ねが、長男の言葉につながっています。

長男の言葉が突きつける価値観の転換

「父さんが、子どもの頃してもらいたかったことをしてくれてた」

この一言は、本作の核心の一つです。

ここで長男は、

  • 血縁
  • 名前
  • 本当の過去

よりも、「関係性」を選び取っています。

これは大人にとって、非常に難しい選択です。
なぜなら大人は、社会的な正しさや制度を知っているからです。

子どもは、もっと直接的に世界を見ます。
「自分にどう関わってくれたか」
「どう扱われたか」
それが全てです。

この視点は、観客である私たちに鋭く突き刺さります。

名前とは何か|呼ばれることで形作られる存在

名前は、個人を識別するためのものです。
同時に、社会に属するためのパスワードでもあります。

名前がなければ、

  • 書類は作れない
  • 契約は結べない
  • 公的に存在できない

だからこそ名前は、人を守ります。
しかし同時に、名前は人を縛ります。

大祐が名前を捨てたのは、
「自分を消したかった」からではなく、
「生きられる自分を作り直したかった」からではないでしょうか。

戸籍という制度が持つ暴力性

戸籍制度は、日本社会において極めて強い力を持っています。
家族関係を明確にし、法的な安定をもたらす一方で、
そこから外れた人間を容易に排除します。

  • 生まれ
  • 国籍

これらは、本人の意思で選べません。
それでも人生に大きな影響を与え続けます。

城戸も大祐も、この制度の中で
「正しく生きているはずなのに、どこかで引っかかる存在」
として扱われてきました。

嘘はどこまで許されないのか

ここで避けて通れない問いがあります。

大祐の嘘は、許されないのか。

彼は確かに嘘をつきました。
名前も、過去も、家族関係も偽っていました。

しかし同時に、

  • 家族を大切にした
  • 子どもを守った
  • 日常を誠実に生きていた

という事実も存在します。

嘘とは、誰を傷つけたときに「罪」になるのでしょうか。
そして、その判断を下すのは誰なのでしょうか。

「真実を知る権利」と「知らないでいる権利」

城戸は弁護士として、真実を明らかにする立場にいます。
しかし調査を進めるほどに、彼は迷い始めます。

  • 真実を知ることで、誰が救われるのか
  • 真実を暴くことで、誰が傷つくのか

真実は、常に善でしょうか。
それとも時に、暴力になるのでしょうか。

この問いに、映画は答えを出しません。
観客一人ひとりに判断を委ねています。

他人の人生を生きた男は、幸せだったのか

最終的に残る問いは、ここに集約されます。

大祐は、幸せだったのか。

彼は「本当の自分」を捨てました。
しかしその代わりに、

  • 家族を得た
  • 誰かに必要とされた
  • 日常を生きた

それを「偽物の幸せ」と切り捨てることは、
果たしてできるでしょうか。

幸福とは、
戸籍に記された事実でしょうか。
それとも、誰かと過ごした時間でしょうか。

観客に委ねられた裁き

『ある男』は、最後まで判断を放棄します。
裁くのは、観客です。

  • あなたは大祐を許すのか
  • それとも許さないのか
  • そもそも裁く権利があるのか

この問いに正解はありません。
だからこそ、この映画は観る人の人生経験によって、
まったく異なる顔を見せます。

総まとめ|「自分とは何者か」を問い続けるために

『ある男』は、
他人の人生を生きた男の物語であると同時に、
私たち一人ひとりが、どんな人生を生きているのかを問い返す作品です。

私たちは皆、

  • 何かを隠し
  • 何かを演じ
  • それでも生きている

その延長線上に、大祐の人生があります。

だからこそ、この物語は遠くありません。
静かで、残酷で、そして優しい問いとして、
観終わったあとも私たちの中に残り続けるのです。

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