映画『チタン』考察|出産が意味するものとは?トラウマと父性の物語

映画感想

あらすじ

幼い頃に交通事故で頭部を負傷し、頭蓋骨にチタンプレートを埋め込まれた女性、アレクシア。
その事故を境に、彼女の人生は静かに、しかし決定的に歪み始めます。

成長したアレクシアは、性的にも感情的にも他者と関係を築くことができず、暴力的な衝動を内在させた存在として描かれます。
ある事件をきっかけに追われる身となった彼女は、逃亡の末、失踪した少年「アドリアン」を名乗り、孤独な消防士ヴィンセントの前に現れます。

ヴィンセントは、10年前に行方不明になった息子と彼女を重ね、疑念を抱きながらも受け入れます。
こうして、血のつながらない二人による、奇妙で歪な「父子関係」が始まるのです。

映画好きにはたまらない作品

本作は、決して万人向けの映画ではありません。
恋人や家族、友人と気軽に鑑賞できる作品でもありません。

しかし、映画という表現そのものを愛する人にとっては、これ以上ないほど考察しがいのある一作です。

ジャンルはボディホラー、スリラー、ヒューマンドラマといった枠に分類されることが多いですが、『チタン』はそのどれにも完全には収まりません。
むしろ「身体を通してトラウマと愛を描いた映画」と言った方が近いでしょう。

ひとりで、できれば静かな環境で、観終わったあとにしばらく余韻に浸れる状況で観てほしい作品です。

『チタン』という映画の位置づけ

本作は、第74回カンヌ国際映画祭で最高賞パルム・ドールを受賞しました。
女性監督による受賞は史上2人目であり、その点でも映画史的に重要な意味を持ちます。

ただし、この受賞は「完成度が高いから」「わかりやすく感動的だから」という理由ではありません。
むしろ、『チタン』は観客に不快感・違和感・理解不能さを突きつける作品です。

それでも評価されたのは、この映画が
「暴力」「性」「家族」「ジェンダー」「身体性」といった、
現代社会が抱える根源的なテーマを、極端なまでに純度高く提示したからでしょう。

アレクシアの人生

主人公アレクシアの人生を考えてみます。

幼少期の事故によって、頭部にチタンを埋め込まれたことが、彼女の人生を大きく変えた――
そう思われがちですが、これは正確ではありません。

事故はあくまで引き金に過ぎず、
彼女の生育環境、親子関係、もともとの気質が、事故というトラウマによって増幅されたと考える方が自然です。

アレクシアは他者との関係において、
「安心」や「愛着」を感じることができません。

その代わりに、
・支配
・暴力
・身体的接触
といった、歪んだ形でしか他者と関われない存在として描かれます。

アレクシアのトラウマ

アレクシアにとって最大のトラウマは何だったのでしょうか。

私は、実父からの性的虐待が、彼女の人生を決定づけたトラウマである可能性が高いと考えます。

映画内では明確に描写されませんが、以下の点が強い示唆となっています。

  1. 父親とキッチンで交わされる、まるで他人同士のような無機質な態度
  2. 医師である父親が、娘の妊娠を指摘しない異常さ
  3. 両親を家ごと焼き殺すという選択
  4. 火をつける直前、父とアレクシアの視線が交差する演出

これらを総合すると、
アレクシアにとって父親は「保護者」ではなく、
身体と人生を侵食した加害者だったと解釈できます。

身体に刻まれたトラウマとしての「チタン」

チタンは単なる医療素材ではありません。
それは、アレクシアの身体に埋め込まれたトラウマの象徴です。

心理学的に言えば、
トラウマは「記憶」ではなく「身体感覚」として残ります。

アレクシアは、
考える前に身体が反応し、
感情より先に衝動が動き、
言葉より暴力で世界と関わります。

これは、解離や再演といったトラウマ反応として、非常にリアルな描写です。

父子関係の再構築

アレクシアは、ヴィンセントとの生活の中で、
実父とは築けなかった父子関係を、もう一度やり直していきます。

重要なのは、ヴィンセントが「完全な父」ではない点です。
彼もまた、孤独で、老いと喪失に怯え、
ステロイドに依存しながら必死に自分を保っています。

それでも彼は、
アレクシアを支配せず、
彼女の身体を所有しようとせず、
「存在そのもの」を受け入れます。

ヴィンセントという「安全な父性」

決定的なのは、
アレクシアがヴィンセントに性的関係を迫った場面です。

ヴィンセントは、はっきりと拒否します。

これは単なる道徳的判断ではありません。
アレクシアにとって初めて、
身体を侵害されない父性との出会いだったのです。

この瞬間、
彼女の中で「父=加害者」という図式が崩れ始めます。

出産が意味するもの

アレクシアが妊娠していた子ども。
それは、彼女にとって希望ではなく、トラウマの具現化でした。

父親の子どもである可能性が高いその存在は、
彼女の身体の中で、過去を繰り返し続けていたのです。

だからこそ、
「出産」は祝福ではありません。

それは、
トラウマが身体から外へ出る瞬間
過去が終わる瞬間
なのです。

トラウマからの解放とは何か

最後に少し飛躍した解釈を述べます。

もしかすると、
アレクシアは幼少期の事故の時点で、
すでに「生き延びるべきではなかった」のかもしれません。

彼女は、チタン=トラウマによって生かされ続け、
トラウマが役割を終えた瞬間、命も終えた。

そう考えると、
ラストシーンは悲劇ではなく、
ようやく訪れた解放として見ることもできます。

終わりに

『チタン』は、
理解する映画ではなく、
耐える映画です。

そして、耐えた先でようやく、
「人が人として生きるとは何か」
「愛とは何か」
を静かに問いかけてきます。

答えは用意されていません。
だからこそ、この映画は、観る人の数だけ解釈が生まれるのだと思います。

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